モーツァルト「後宮からの誘拐」の斬新な響き(東洋経済オンライン)

8/17(金) 8:00配信

東洋経済オンライン

 読者の皆様、多忙な毎日を過ごされていると思います。爽快な事も不愉快な事もあるでしょう。時には、上司との見解の相違、対立もあるでしょう。場合によっては、激しい口論、けんかも。

 そこで、 今週末に聴いていただきたい名盤は、モーツァルトの歌劇「後宮からの誘拐」(Die Entführung aus dem Serail)です。

 なぜこの音盤かと言えば、ザルツブルクの宮廷楽団員だったモーツァルトは雇用主であったコロレド大司教(Hieronymus von Colloredo)との間で激しい口論となり解雇されたのですが、その結果生まれた作品だからです。その時、モーツァルトは25歳。定職のないフリーランスの立場におかれます。そこで、起死回生、作曲したのが「後宮からの誘拐」です。

 ここには、社会的な地位には恵まれてないけれど新しい音楽への創造力に満ちた若きモーツァルトがいます。魅惑の旋律と斬新な響きに満ちています。しかも、イタリア語こそがオペラの言語と相場が決まっていた時代にドイツ語でつくられたオペラという意味でも画期的でした。脚注的にいえば、欧米のロックにあこがれて学んだJポップ創世期の世代(はっぴいえんど、カルメン・マキ&OZ、サザン・オールスターズなど)が日本語によるロックに情熱を燃やした状況に似ています。

 あと一つ、映画「アマデウス」で皇帝ヨーゼフ2世が、リハーサルをしているモーツァルトに対して「この曲はちょっと音数が多すぎないか」と指摘したのに対して、モーツァルトが「皇帝、ちょうど必要なだけの音符があるのです」と説明する場面がありました。これがまさに「後宮からの誘拐」のリハーサルでした。

■野心家の若きモーツァルトと雇用主との対立

 さて、古今東西ビジネスパーソンは日々闘っています。敵は外だけではなく、社内にもいます。十人十色とはよく言ったもので、仕事上の事で意見が分かれるのも日常茶飯事です。時に上司との対立もあるでしょう。決定権があるのは上司です。立場が上になれば視野も広くなり、全体の中で妥当なリスク判断ができるのが上司、のはずです。

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済美・中矢監督、被災者に伝えたかった思い(東洋経済オンライン)

  「豪雨で被災した方々に何かメッセージを!」

 7月に起こった西日本豪雨災害の影響を受けた愛媛と広島の代表である済美、広陵の監督と選手たちにはこの質問が飛んだ。

 「広島の置かれている状況を考えると、野球をしていいのかとも思うが、広島県の代表として夢を与えられるプレイをしたい」

 広陵の中井哲之監督は広島大会を制したあとにこんなコメントを残した。

 8月12日に行われた2回戦、二松学舎大付(東東京)との試合の前後にも同じことを問われ、こう答えた。

 「7月はテレビも新聞も、豪雨災害のニュースばかりだったので、いいニュースを届けられたら」(中井監督)

 もちろん、勝利を重ねることでいまも苦しんでいる人々を勇気づけられればいいのだが、勝負の世界だけに難しい。広陵は10安打を放ちながら、2対5で敗れた。

 広陵のエース・森悠祐は「悔しい。少しでも明るいニュースを送りたかったのに」と試合後に語った。

■済美・中矢監督にとっての甲子園

 今回の豪雨災害によって、大きな被害を受けた愛媛の代表は済美だ。

 1回戦で中央学院(西千葉)に競り勝ち、2回戦で星稜(石川)と対戦した。済美の中矢太監督は、「松井秀喜5敬遠」が起きた26年前の星稜戦で控え選手として明徳義塾(高知)のベンチにいた。

 済美のコーチになるまでは明徳義塾の馬淵史郎監督のもとで長くコーチをつとめた。

 だが、因縁の相手との対戦を前にしても、いつも通り冷静だった。いまのチーム力を分析し、不利な展開になることを予想して、準備を怠らなかった。

 「点差をつけられても、粘り強く戦おう」と選手には言い含めていた。

 だから、1対7とリードを広げられても、選手はあきらめなかった。ピンチをしのぎ、逆転のチャンスを待った。

 中矢監督が指揮をとることになったのは2016年7月。

 翌年夏の愛媛大会で優勝を飾り、甲子園では2勝を挙げ、ベスト16進出を果たした。敗れはしたものの、盛岡大附属との満塁ホームランの応酬は強烈なインパクトを残した。

 「私は2003年に済美のコーチになり、部長・コーチとして全国優勝1回、準優勝2回を経験させていただきました。しかし、1年間の対外試合禁止(いじめの発覚により2014年8月9日~2015年8月8日の間)という処分も受けました」(中矢監督)

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PL学園野球部、廃部2年の今に残る最後の灯(東洋経済オンライン)

8/16(木) 8:00配信

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 夏の甲子園が100回記念大会に相応しい盛り上がりをみせている。とりわけ、大阪桐蔭が史上初となる2度目の春夏連覇を成し遂げるかが話題を独占しているが、その長い歴史の中で鮮烈な印象を残した高校を振り返っていったとき、代表校として名前を挙げる人が多い高校の1つが、同じ大阪代表として全国制覇7度(春3回、夏4回)を誇るPL学園ではないか。

 1956年創部のPL学園硬式野球部は、2009年までに春と夏の甲子園にあわせて37回出場し、歴代3位となる通算96勝を記録した。卒業後にプロに進んだOBの数も、他校を圧倒する。木戸克彦、西田真二、吉村禎章、桑田真澄、清原和博、立浪和義、宮本慎也、福留孝介、今江敏晃、前田健太……。総勢81人を数え、球史に名を残す大投手、大打者も多い。

 高校野球ファンの間で、抜きんでた人気を集める名門中の名門、全国屈指の伝統校がPL学園だった。

 だが、100回目となる今回の甲子園の地方大会に参加した3781校の中に、PL学園の名前はない――。

■立浪和義が語る野球部への思い

 PL学園の硬式野球部が活動休止となってから、はや2年である。1980年代から1990年代にかけて、甲子園のアルプススタンドに巨大な人文字を描き、絶大な人気を誇った同校野球部の廃部を惜しむ声や、活動再開を求める声(動き)もすっかり聞かれなくなってしまった。

 「自分だけじゃなく、先輩方や後輩が築いてきた伝統が、簡単になくなってしまった。そして、PL出身の現役プロ野球選手も少なくなってしまった。そのうち、誰もいなくなってしまったら、忘れられていくんでしょうね。それが一番、寂しいです」

 そう話していたのは、元中日の立浪和義だ。KKコンビ(桑田真澄、清原和博)の2歳下にあたる立波は、主将を務めていた1987年に春夏連覇を達成。PL黄金期のシンボルのような選手だろう。

 廃部の引き金となったのは、度重なる不祥事の発覚だった。2000年代に入ってから、先輩・後輩の厳しい上下関係による、暴力の実態が明らかになっていった。当然、高校時代の立浪もそういう環境に身を置いていた。

 「正直、僕らの時代では当たり前というか、あらゆる学校に、野球部だけじゃなくいろんな部活動に、上下関係はあったんですけどね。行きすぎた暴力は良くありませんが、最低限の厳しさは必要ですよ。正直、やりにくい世の中になったな、と思います」

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日本人が忘れてしまったサメとの深い関係(東洋経済オンライン)

8/16(木) 8:00配信

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夏休みシーズンにお送りしている「基礎から知りたい!」。魚類の中でも、軟骨魚類という特殊なジャンルの「サメ」について学んでいます。講師は世界で唯一のサメジャーナリストである、沼口麻子さん。4日連続特集の3日目は、日本人とサメの深くて長い関係について教えてもらいました。初めて聞くことばかりでホント勉強になりました! 

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■縄文時代からサメは食べられていた

 木本:サメの呼び方も地方によって違うんですよね。

 沼口:山陰地方では「ワニ」と呼ばれ、「フカ」もサメを意味しています。フカヒレのフカ。漢字では魚ヘンに養うと書く。それぞれ語源には諸説あって、地域や食文化によって呼び名が違います。

 木本:小さい頃は、サメって日本にいる魚でなくて、どこか遠い外国の魚だと思っていました。でも、趣味の海釣りをすると、いっぱいサメがいます。日本ではサメとのかかわりが昔からあったんでしょうか? 

 沼口:縄文時代の三内丸山遺跡(青森県)からサメの骨が出てきています。昔から日本人がサメを食べていた証拠でしょうね。

 木本:昔話や伝説にも出てくるんですか? 

 沼口:「因幡の白兎」の話をご存じでしょう。兎がワニの上に乗ってぴょんぴょん跳ねて渡ったという話があります。本来のワニは日本には存在しないので、冒頭に触れたように山陰地方でサメをワニと呼んでいたので、実際はサメだったと言われています。

 木本:天狗が鼻の高い外国人だったというのと一緒ですね。

 沼口:広島ではいまも「ワニ料理」があって、それはサメ肉を使ったものです。

 木本:その話でも、ワニ=サメ説を濃厚に感じます。

 沼口:天狗で思い出しましたが、「天狗の爪」を山から見つけてきて、天狗がいたんじゃないかという話になっていたんです。今日持ってきました。

 木本:これはまさに天狗の爪じゃないですか。相当大きな天狗ですね。

 沼口:これは古代のサメであるメガロドンの歯と言われています。

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恐怖!田舎暮らしは「地獄の沙汰もカネ次第」(東洋経済オンライン)

8/16(木) 8:00配信

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田舎暮らしを希望している都会の人の大きな誤解が、田舎は都会よりもお金がかからない、生活費が安くあがる、という思い込み。実は、田舎暮らしは、物価も、保険料も、税金も都会より高い。しかも、場所によっては、交際費が収入の3分の2もかかることもある。
前回「恐怖の実話! 悪夢と化した『夢の田舎暮らし』」で田舎暮らしの人間関係を語ってくれた、移住歴20年のベテラン・イジュラーに、今回は、田舎暮らしのお金の現実を語ってもらった。

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 風のなかに 土のにおいが もう一度 日本を見つける 私を見つける――。

 女優の松たか子の詩的なナレーションで始まる人気番組「新日本風土記」。その叙情的な言葉に誘われるかのように、番組の熱心なファンでもあった夫婦が長野県東部の、とある集落に移住したのは32歳のときだった。

 人口わずか1000人弱の小さな谷あいの集落に移り住んだ直後、道ですれ違った老婆は開口一番、夫婦のあいさつを手で遮ったかと思うと、宣告せんばかりにこう告げた。

 「ここは言葉は荒れぇけど、その場限りだから気にすんな」

 思えば、それが地獄の釜が開いた瞬間だったのかもしれない。その地で体験したのは、「言葉が荒れぇ」などでは済まされない地獄絵図さながらの体験だった。「新日本風土記」が映す地方の、僻地の、田舎のくったくのない笑顔。そんなものはどこにもなかった……。

■「修学旅行の金は俺たちの税金だ」

 現在、40歳を越えた高藤泰之(仮名)さん夫婦は、高校生になった長女とともに、長野県佐久市内で暮す。佐久は長野新幹線で東京に出るにも便利で、地元電気会社の営業マンとして働く高藤さんにとっては首都圏へのアクセスも悪くなかった。

 就農を目指し、32歳のときに関西から移住したのは、佐久からもさらに車で小一時間ほど走る山間部の集落だった。小学生に上がったばかりの長女とともに移り住んだ高藤さんは就農支援を受けながら、それなりに地域にも溶け込み、子どももすっかり小学校になじみ……と、傍目には移住成功組と映っていた。

 自治体が発行する移住体験記のパンフレットに、家族全員で紹介されたこともあった。

 「子どもにとっては、まさにふるさとができたといった感覚で、僕らにとっても第二の故郷と呼んでもいいかなと思ってうれしかったんですが……」

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婚活で「体の相性」を最優先にしてはならない(東洋経済オンライン)

8/16(木) 5:00配信

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お互いが“結婚”に向かえると確信すると“交際”から“真剣交際”に入るのが、結婚相談所の通例だ。
仲人として婚活現場にかかわる筆者が、毎回1人の婚活者に焦点を当てて、苦悩や成功体験をリアルな声とともにお届けしていく連載。今回は、真剣交際に入った会員女性が、相手とすれ違う感情をどう修復し、結婚までたどり着いたのか、その軌跡を記す。

■4人の男性の中から1人に絞った理由

 結婚相談所には、“交際”と“真剣交際”の区分がある。“交際”は、お相手のお人柄を見ていく期間なので、ほかの人とお見合いをしてもよいし、何人と交際をしていてもよい。

 その期間を経て、“この相手となら結婚に向かえる”と気持ちが固まったら、“真剣交際”に入る。そのときには1人に絞り、ほかに会っている人たちがいたら交際終了にする。

 戸口文香(36歳、仮名)は、4人の男性と交際に入っていたのだが、同い年の河田友康(仮名)と真剣交際に入ることを2人で合意した。河田を選んだ理由は、こうだ。

 「河田さんがいちばん私の話を聞いてくれたし、なんでもテキパキと決めて動いてくださった。同い年だったこともあるのですが、偉ぶったところもなくて、いつも同じ目線で話をしてくださるのもよかった」

 ほかに交際していた男性のうち吉川(35歳、仮名)は、「会って話をすると楽しいけれど、会う日程や場所が決められず、すべてを女性側に投げてくる人でした」。上田(42歳、仮名)は、「会う前に事務連絡のようなメールが来て時間と場所が決まるのですが、お会いして2時間程度の食事をした後は、次に会うときまでメールが来ない。いまひとつコミュニケーションが取れませんでした」。斎藤(44歳、仮名)は、「会話の物言いが上から目線で、私が違った意見を言うと、さらに上から意見をかぶせてくる人でした」。

 そうした理由から、彼ら3人の男性とは結婚には向かえないと判断したようだ。

 また、河田は真剣交際に入る前に、「僕の両親に会いませんか?」と、提案してきたのも決め手となった。

 「最初は、“このタイミングで?”と思ったんですが、“結婚とかそういう堅苦しい話ではなく気軽に”とのことだったので、お会いすることにしたんです。ご両親にお会いしたら、彼がどんな家庭で育ったかもわかると思ったので。そうしたら、とても気さくな方たちで、“このご両親なら、結婚してもうまくやっていけそうだな”と思ったんです」

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曲直瀬道三が日本医学「中興の祖」である理由(東洋経済オンライン)

8/15(水) 10:00配信

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「日本医学・中興の祖」と称される戦国の名医・曲直瀬道三。彼が日本の医学界に遺した多大な貢献とはどのようなものだったのか。『小説 曲直瀬道三――乱世を医やす人』の著者・山崎光夫氏と、日本の漢方の第一人者で戦国期の医学事情に詳しい秋葉哲生氏に、道三の医学の真髄を語ってもらった。その続編をお届けする。

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前編:信長、秀吉を診察し、家康に医術を授けた名医

■日本医学・中興の祖

 ――曲直瀬道三は「日本医学・中興の祖」と称されていますが、具体的にどのような点で功績があったのでしょうか。

 山崎:前回に話しましたが、私は道三を「日本医学の祖」ととらえています。そのうえで考える道三の功績は、望診(ぼうしん)したうえで、舌診(ぜっしん)、脈診(みゃくしん)、腹診(ふくしん)の3つの診断を経て、それで病名を定め、病態を決め、そして薬を処方する、これを「察病弁知(さつびょうべんち)」と言いますが、現在では当たり前に行われている入念な診断と的確な治療を定着させたのは、曲直瀬道三なんです。

 それ以前は「僧医」が大半で、僧侶が医師を兼ねていたのです。要するにお坊さんは知識人で医学書なども読めますから、たとえば信者がお寺などに来たときに体の不調を訴えると、当時の医療の定本であった『和剤局方』などに書いてあるとおりの処方をしていました。それは、症状を聞いて医学書に書いてあるとおりの診断・処方をするもので、患者を入念に診て診断する医療ではなかったわけです。

 秋葉:鎌倉の時代は僧医が中心で、臨済禅を伝えた栄西などが代表ですが、彼は『喫茶養生記』などを書いたりしています。源実朝の二日酔いをお茶で治したといった話も伝わっていますね。

 昔の医師は僧侶の格好をしている者が多かったのですが、これには理由がありまして、僧侶だと中国へ渡りやすかったという事情もあったようです。仏教を究めるためにという口実であれば、比較的容易に中国への渡航が許された。ですから医学を学びたい者も僧形をしていたのです。それがなくなるのが江戸・享保年間の後藤艮山からで、彼は束髪にしていましたね。

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鈴木敏夫氏「ひっそり生きたほうが幸せです」(東洋経済オンライン)

8/15(水) 9:00配信

東洋経済オンライン

禅とジブリ。一見関係なさそうな組み合わせがすてきな化学反応を起こした。7月に刊行されたスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーの著書『禅とジブリ』(淡交社)では、『もののけ姫』『火垂るの墓』などジブリの名作を禅で読み解く。芥川賞作家で福聚寺住職の玄侑宗久氏、臨済宗円覚寺派管長の横田南嶺氏、龍雲寺住職の細川晋輔氏との対談が掲載され、ジブリ作品を題材に、この1冊を読み終えれば禅の教えが自然と身に付く。鈴木プロデューサーに禅とのかかわりについて聞いた。

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■頭ではなく体で覚えた仏教

 ――鈴木さんが仏教に接したのはいつごろですか。

 僕は中高一貫校の東海学園で学びました。仏教校ですから、1年に何度も京都や奈良に連れていかれる。それが丸6年間続きました。最初は何の興味もなかったのですが、2年経ち、3年経つうちに仏教を身近に感じるようになりました。

 たとえば夏の合宿で昼や夜の食事のときには、「本当に生きんがために、この食を食します」と言わないといけない。南無阿弥陀仏の勉強もやらされました。そういうことを日常的にやっていると、頭ではなく体で覚えるようになってくるのです。

 ――大人になってから禅を学んで、人生の考え方が変わったという話をよく聞きますが、鈴木さんは子どもの頃から禅が体に染み付いていた? 

 そうですね。自分が未発達なときに禅に接しましたから。僕らの学校は浄土宗ですが、仏教というくくりでは禅も近くにあって、坐禅も学校でやりましたよ。

 ――東海学園は男子校です。仏教校であるより前に男子校であることのインパクトも強かったのでは? 

 そうです、男子校は独特ですよね。こういうことがありました。高校2年になると、勉強ができるかどうかを基準にA群とB群に分けるのです。さらにB群も高校3年になると、勉強がどうにもならない生徒を1つのクラスに集める。僕も勉強していなかったのでそのクラスに放り込まれた。そのクラスは50人くらいいるのですが、なんと留年生が20人もいて、最高齢が24歳だったんですよ。

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「お墓参り」知らないと恥ずかしい基本の基本(東洋経済オンライン)

8/15(水) 8:00配信

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 現在、日本の民俗行事である「お盆」は8月15日を中心に行われています。

 もともとは旧暦の7月15日を中心に行われており、7月13日の迎え盆から7月16日の送り盆までは商いや農作業を休み、ご先祖を思い感謝する期間として伝えられています。

■「お盆の季節」が地域によって異なる理由

 お盆の過ごし方は全国共通ではなく、地域や、宗教・宗派などによって異なります。仏壇の前に盆棚・精霊棚といわれる棚を設置するケースが多いのですが、机を置くだけの簡単なものから、机の周囲に四本の竹を立ててその周囲をわらの縄でつなぎムシロを敷いたもの、また、やぐらのように大がかりなものまでさまざまあります。

 盆棚の正面には、先祖代々の位牌を並べ、その周囲にたくさんのご馳走が並びます。キュウリやナス、大豆、スイカなど季節の野菜が中心で、キュウリとナスにいたっては、「ご先祖が馬にのって早く帰ってくるように」「牛にのってゆっくりお帰りください」という願いを込めて、馬牛のカタチにみたてた形で置かれます。

 お盆は旧暦の7月(現在の8月中旬頃)とされており、七夕から中元、お盆へと続く一連の行事の中にありました。ところが、旧暦から新暦に移行する際に、お盆の時期にズレが生じました。

 1873年(明治6年)に新暦に移行した際、明治政府のお膝元であった東京は暦の変化に合わせてお盆の時期を新暦の7月にずらしました。しかし、新暦の7月は農作業の繁忙期に当たります。東京以外の多くの地域では、あわただしい時期にのんびりと、お盆行事をしている余裕はありません。

 そこで一部の地域では、旧暦のお盆に近い一カ月遅れの新暦8月15日をお盆としたわけです。

 東京以外では、沖縄などで現在も旧暦どおりの暦でお盆行事が行われています。そうした旧暦採用地域の場合、お盆の時期は新暦の固定スケジュールではなく、毎年少しずつ日程が異なります。

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教科書すら読めない人を襲う「AI失業」の恐怖(東洋経済オンライン)

8/15(水) 8:00配信

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 たとえば「やがてはAI(人工知能)が人間の能力を超える」とか、あるいは「2045年には人工知能は人間の脳を超えるシンギュラリティ(技術的特異点)に到達し、人間の仕事がAIに奪われる」など、AIと共存する未来についてはさまざまな推論が存在する。

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 しかもそれらは少なからず「常識」のように思われている節があるだけに、私たちは時として漠然とした不安に襲われたりもする。「いつか自分の仕事がなくなってしまうのではないか?」というように。

だが、『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社)の著者、新井紀子氏は、そんな話を真っ向から否定する。

AIは神に代わって人類にユートピアをもたらすことはないし、その能力が人智を超えて人類を滅ぼしたりすることもありません、当面は。当面はと言うのは、少なくともこの本を手に取ってくださったみなさんや、みなさんのお子さんの世代の方々の目の黒いうちにはということですが、AIやAIを搭載したロボットが人間の仕事をすべて肩代わりするという未来はやってきません。(「はじめに」より)

 なぜなら、AIはコンピュータであり、コンピュータは計算機であり、計算機は計算しかできないから。つまりはそのことを理解していれば、ロボットが人間の仕事をすべて引き受けてくれたり、人工知能が意思を持って人類を攻撃したりするといった考えが、単なる妄想にすぎないことはすぐにわかるというのである。

 新井氏は2011年に、「ロボットは東大に入れるか」と名づけた人工知能プロジェクトを開始した数学者。ロボットの「東ロボくん」を主役とするそのプロジェクトのことは多くのメディアに取り上げられたので、ご存じの読者もいるのではないかと思う。

■東ロボくんの偏差値が上昇

 まず、このことについて注目すべきは、スタートから7年の歳月を経て、東ロボくんが「成長」したという事実だ。2013年に初めて“受験”した代々木ゼミナール「第1回全国センター模試」では全国平均を大きく下回って偏差値は45だったものの、3年後の2016年に受験したセンター模試「2016年度進研模試 総合学力マーク模試・6月」では平均得点の437.8点を上回る525点を獲得し、偏差値も57.1まで上昇したというのだ。

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