廃止30年、「青函・宇高」鉄道連絡船の歩んだ道(東洋経済オンライン)



7/22(日) 6:00配信

東洋経済オンライン

 旧国鉄には、鉄道のほかに「鉄道連絡船」が存在していた。今も広島県にはJR宮島航路が存在しているが、鉄道連絡船の代表格は、青森と函館を結んだ青函連絡船、そして宇野と高松を結んだ宇高連絡船だろう。かつての連絡船、特に青函連絡船は貨物列車を船内に収容して輸送するなど、文字通り海を越えて鉄道輸送を連絡する役割を果たしていた。

【写真】青函連絡船八甲田丸のブリッジの様子

 長い間、海によって隔てられていた本州と北海道、四国の鉄道を結ぶ役割を担ってきたこれらの連絡船は、今から30年前の青函トンネル開業、瀬戸大橋開通によって役割を終え、その姿を消していった。今回はその最盛期から末路、そして廃止後の船の消息などを交えて振り返ってみたい。

■「世界一安全な船」

 津軽海峡を結ぶ青函連絡船は1908(明治41)年に、国鉄直営の航路として青森―函館間にイギリス製の「比羅夫丸」によって就航開設された。それ以来、1988(昭和63)3月の青函トンネル開業まで、本州と北海道の鉄道を結び続けた。

 筆者は国鉄時代に青函連絡船「大雪丸」の添乗取材をしたが、そのときの船長の言葉が今も忘れられない。

 「青函連絡船は洞爺丸事故を教訓とした、世界一強固で安全な船です。この船が洞爺丸と同じ運命をたどることは絶対にありません」

 洞爺丸事故とは1954(昭和29)年9月26日、台風による瞬間最大風速50mを超える暴風雨と猛烈な波浪によって青函連絡船「洞爺丸」が沈没、死者行方不明あわせて1155人に及ぶ犠牲者を出した、日本海難史上最大の惨事だ。

 この台風では、洞爺丸以外にも数隻の連絡船が座礁、沈没した。洞爺丸をはじめ当時の青函航路の船舶は水への密閉が不完全な構造で、浸水した海水はボイラーにまで達し、航行が不可能になり漂流状態になったのが大事故に結びついた原因の一つと言われている。

 洞爺丸事故は戦後に起きた「国鉄五大事故」の一つに数えられるが、この中にはほかにも連絡船の事故が含まれている。1955(昭和30)年5月11日に発生した、宇高連絡船「紫雲丸」の沈没だ。霧の中で第三宇高丸と衝突沈没、修学旅行生たち168人が死亡した痛ましい事故で、濃霧と瀬戸内海の船舶混雑が生んだ悲劇であった。

 洞爺丸の海難事故を契機に、国鉄は青函連絡船の安全を維持するため、戦中戦後に建造された船舶を代替するために強固な構造のいわゆる2代目連絡船を建造した。

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